原子力文化2018年2月号 インタビュー(抜粋)
沈まぬ南極の太陽の下で作業を
― 今、日本の南極観測隊は ―
2月。昭和基地では越冬交代式が行なわれます。そして、昨年末から入った夏隊員と、前次隊の一冬過ごした越冬隊員は、帰国の途に着きます。
48次と50次の夏隊として観測隊に参加した橋本さんは、12月半ばに昭和基地に入り、翌年の2月まで基地の設営に携わりました。
平成30年秋には、第60次の観測隊が出発するという日本の南極観測隊。その歴史や、あまり知られていない基地での設営作業、生活などを、お話願いました。
橋本 斉 氏 (はしもと・ひとし)
1963年北海道生まれ。1983年国立函館工業高等専門学校卒。東京ガスを経て飛島建設(株)へ。日本南極極地観測隊48次夏隊、同50次夏隊参加
―― そもそも、なぜ観測隊員に。
きっかけは、会社からの「南極に行かないか」というメールでした。私はそのとき作業所勤務で、1週間ほど家に帰らないのが常でした。すぐ家族に連絡して「行ってもいいか」という話をしたのです。意外にも家族は賛成でした。
南極については、それまで知識がほとんどなかったので、氷に閉ざされて危険な場所というイメージしかありませんでした。今、昭和基地には60棟くらい建物がありますし、北海道のように建物の中は暖かいです。建物の外に出るときも安全装備をして出ます。しかし、南極の自然は昔と今も変わっていませんから、危険な場所はいっぱいあります。何が起きても不思議ではないのですが、1956年の探検隊と言われていた1次隊のころに比べたら、安全なところになったと思います。
1回行くと「次も行きたいな」と思いました。48次のとき、基地で約1.5キロの道路を計画しましたが、実際、1年では700メートルしかできなかったので、「2年計画で行きたい」と会社に言いましたが、それはかないませんでした。
それで次の次、第50次観測隊で2回目のチャンスが訪れました。このときの船は都合により、オーストラリアの観測船「オーロラ・オーストラリス」という小さい船でした。この船は、南極大陸でもわりと行きやすいところに行くようなものでした。それで隊員の数は、通常は60名のところ、50次は40名強で隊員が少なく、経験者がほとんどでした。
―― 観測隊員の訓練はどのように。
観測隊の始まりは、まず行く年の前の年から始まります。11月に隊員の候補を決め、翌年の2月から訓練等に入っていきます。
正式に決まるのは6月の中旬ですが、そこまでに、退かれる方や、健康診断などで引っかかる方もいます。不足分を補填しながら、最終的に6月中旬を目途に決めていきます。
7月からは国立極地研究所に隊員室というのができます。例えば、私が最初に行ったときは48次隊隊員室ができました。出発する11月にかけていろいろな準備を隊員室で行ないます。そして11月に出発して、夏隊は3月末に、47次の越冬隊と帰ってきました。その際、一緒に行った48次越冬隊は残り、基地を守ります。
隊員室に詰める7月から3月末まで会社を退社して公務員になります。観測隊員は国の機関に勤めているのが条件で、退職金だけつながっていて、給料や厚生福利関係は国から支給されます。
(一部 抜粋)
2018年2月号 目次
風のように鳥のように(第98回)
聞くって、たいへん/岸本葉子(エッセイスト)
インタビュー
沈まぬ南極の太陽の下で作業を/橋本斉(飛島建設(株)土木営業部 営業統括部 民間営業部長)
特別インタビュー
伊方原発再稼働を否定した広島高裁決定の問題点とは?/住田裕子(弁護士)
中東万華鏡(第23回)
サマルカンドのキリン/保坂修司(一般財団法人日本エネルギー経済研究所 研究理事・中東研究センター 副センター長)
おもろいでっせ!モノづくり(第62回)
朝ドラに始末・才覚・算用が出てました/青木豊彦(株式会社アオキ取締役会長)
地下環境学への誘い(第2回)
多重バリアシステム/吉田英一(名古屋大学博物館教授〈環境地質学〉同大学院環境学研究科教授兼任)
笑いは万薬の長(第43回)
ドリーム/宇野賀津子(公益財団法人ルイ・パストゥール医学研究センターインターフェロン・生体防御研究室長)
交差点