月刊誌 原子力文化 インタビュー

原子力文化2017年5月号 インタビュー(抜粋)

弥生時代は、いつごろどこに?
― 日本列島に四つの文化があった ―

放射性物質は自然界にもあります。
考古学には、その一つである放射性炭素14を使って、年代を測定する方法があります。
千葉県佐倉市にある国立歴史民俗博物館では、この方法で弥生時代は従来考えられていたより500年もさかのぼる、という説を、2003年に発表しました。
それから十数年、さらに研究は進み興味深いものになっているようです。
さて、弥生文化は、いつごろどこにあったのでしょうか……。

国立歴史民俗博物館研究部教授
藤尾 慎一郎  氏 (ふじお・しんいちろう)

1959年 福岡県生まれ。専門は、縄文・弥生時代全般、世界各地で農業が始まった頃のくらし、鉄の生産と流通など。広島大学文学部史学科卒業後、九州大学大学院文学研究科博士課程、同大学助手。1988年、国立歴史民俗博物館考古研究部助手、助教授、准教授などを経て、2008年より現職。総合研究大学院大学教授も務めている。『弥生時代の歴史』『弥生文化像の新構築』『〈新〉弥生時代 500年早かった水田稲作』『弥生変革期の考古学』など著書・共著書多数。

―― 国立歴史民俗博物館(歴博)が、弥生時代は従来の研究より500年さかのぼる、と発表したのは、2003年でした。当時は大論争になりましたが。

皆さんが教科書で習われたのは、紀元前3世紀や4世紀だったと思いますが、そうではないという研究者が、多くなってきました。
後は、どこまでさかのぼるかで、今、歴博が言っている、紀元前10世紀という説と、紀元前800年という説と2つあります。
紀元前800年説の研究者は、あくまでも考古学的な研究の到達点として800年を主張しています。
炭素14(*)も重視して考えて調査しているのは、歴博しかありません。

 

―― コメづくりが弥生時代の原点だと思いますが、ご著書を拝見して面白かったのは、実はコメづくりは自然破壊である。そして安定はしていなかった。むしろコメづくりを一度始めると、つづけるしかなく、飢饉の可能性もあり不安定なものだとありました。考えてみれば、江戸時代でも、昭和でも飢饉がありました。
今まで、稲作のイメージは、自然と一体で、定住型で、コメのおかげで生活が安定したと思っていましたが。

西日本ではそれほどではないですが、北国のほうは、何かに特化していくのは危険が伴いますから、当然、縄文時代にはなかったような飢饉が、東北などを中心に出てくる。
でも、西日本はあまりそういうことはありません。もともと気候が稲作に合っているということですから。

―― 地域により、違うのですね。

そうです。コメづくりは中国の長江の下流域で生まれたものです。東北の仙台や青森で見つかっている水田の施設を見ると、先史時代にああいう水田は世界中で他にどこにもないのです。
今でも、そうしていますが、雪解け水のような非常に冷たい水が、直接、水田に流れ込まないように、太陽の光で温めながら利用する。
そのような寒冷地適応型の水田が、すでに弥生時代に見つかっています。弘前あたりだと北緯40度を超えています。
水田が2400年も前に日本列島の北のほうで存在したということは、もともと温帯起源だった水田稲作が、完全に冷温地域に適応していることがわかり、それはそれで非常に意味のあることです。

 

* 放射性炭素14による年代推定とは
生物は、常に放射性炭素14という物質を食べ物などから取り入れています。この炭素14は大気や海水にもありますが、5730年という年月をかけて放射線を出して、その半分が窒素に変わります。生物が生存中、炭素14は体内で常に一定ですが、死ぬと取り入れることができなくなります。植物が炭化したコゲなどの炭素14を測って、空気中の炭素14と比べれば、死んだ時期がわかるのです。

 

(一部 抜粋)




2017年5月号 目次

 

風のように鳥のように(第89回)
おみそれしました/岸本葉子(エッセイスト)

インタビュー
弥生時代は、いつごろどこに?/藤尾慎一郎(国立歴史民俗博物館研究部教授)

追跡原子力
次に廃炉で活躍するのは、筋肉ロボットだ

中東万華鏡(第14回)
ソレイマーンの船(後篇)/保坂修司(一般財団法人日本エネルギー経済研究所 研究理事・中東研究センター 副センター長)

おもろいでっせ!モノづくり(第53回)
安全、安心ってなんですやろ/青木豊彦(株式会社アオキ取締役会長)

客観的に冷静に(第54回)
寺田寅彦随想 その25/有馬朗人(武蔵学園長)

笑いは万薬の長(第34回)
福島1Fの今/宇野賀津子(公益財団法人ルイ・パストゥール医学研究センターインターフェロン・生体防御研究室長)

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