月刊誌 原子力文化 インタビュー

原子力文化2023年9月号 特集1 ルポ (抜粋)

「海の見える町」



世界的な建築家、坂茂氏が設計したJR女川駅

牡鹿半島の付け根に位置する宮城県女川町は二〇一一年三月の東日本大震災で壊滅的な打撃を受け、町の住宅の約九割にあたる約三九〇〇棟が被害を受けた。だが、被災率が最も高い自治体だった同町は今、「復興のトップランナー」と呼ばれている。他の被災自治体では高い防潮堤が築かれる中、「海の見える町」をコンセプトに復興を進め、「還暦以上は口を出さない」という方針のもと、次代を担う若者を中心にした新しいまちづくりが奏功しているためだ。都市機能を縮小・集約して維持する「コンパクトシティー」を目指す被災地を訪ねた。



駅前の商業施設「シーパルピア女川」


夏の陽を受けた水面がキラキラと輝きを放つ。宮城県石巻市と女川町にまたがる万石浦。JR石巻線は湖のように静かな内海の海岸線に沿って走る。仙台駅から列車を乗り継ぎ約二時間。終点の女川駅に降り立った。白い翼のような屋根の駅舎が目に入る。「建築界のノーベル賞」プリツカー賞を受賞した世界的な建築家、坂茂氏が設計した。被災地が復興へ羽ばたく姿を印象づける町のシンボルにもなっている。
 駅前は正面の海に向かってレンガ敷きのプロムナードが延び、両脇にウッド調のデザインで統一された商業施設「シーパルピア女川」の店舗が並ぶ。事業費約六億四〇〇〇円が投じられ、二〇一五年一二月に完成。物産センターの「地元市場ハマテラス」を併設し、合わせて三七のテナントが入る。
 駐車場には地元ナンバーだけでなく、隣県や首都圏ナンバーの車が並ぶ。家族連れのお目当ては地元の新鮮な海の幸。昼時には海鮮丼などが飛ぶように売れていく。シーパルピアは道の駅「おながわ」の一部を構成。手作りの石鹸が買える「三陸石鹸工房KURIYA」や牡鹿半島の海水から作られた天然塩を使った「金華塩アイスクリーム」など若者に人気の店も少なくなく、まるで東京近郊のアウトレットモールのようなにぎわいだ。

 

「家族を探しに行くなら、覚悟を持って…」


 一二年前の三月一一日、最大一四・八メートルの津波が町をのみ込み、町の姿は一変した。死者・行方不明者は当時の人口の約八%にあたる計八二七人。津波は標高一六メートルの高台にある女川町立病院(当時)まで到達した。道路は崩れ、コンクリートの建物も、鉄骨だけの無残な姿に。がれきの山と化した住宅街の近くにはJR石巻線の車両が横転し、女川駅の駅舎は、原形を残すことなく消えた。
 「津波来んだから出ちゃダメ!」。嫁ぎ先の石巻市内で被災した阿部真紀子さん(五二)はあの日、両親が暮らす実家のある女川に向かおうとして、近所の人にこう止められたという。不安の中で一夜を過ごし、翌一二日、改めて車で女川へ向かった。町が見渡せる高台にさしかかると、阿部さんは言葉を失った。
 「やばい」
 木造の住宅は基礎の部分を残して跡形もなくなっていた。
 阿部さんは当時、女川漁港前の商業施設「マリンパル女川」でアテンダントを務めていたが、震災当日はたまたま非番だったため、石巻市で被災した。  「家族を探しに行くなら、覚悟を持って行きなさい」。勤務先の東北電力女川原子力発電所から夜通し歩いて帰ってきたという人とすれ違い、そう言われた。阿部さんの夫も協力企業の社員として発電所で働いていた。焦る思いが胸を締め付ける。想像だにしていなかった町の変わりように「自然と涙がこみ上げてきました」(阿部さん)。
 両親は実家に近く高台に位置する女川町立病院に避難しているに違いない。そう思って、病院へ急行したが、見つけることはできなかった。「お母さんはあっちに逃げたんじゃない?」。顔見知りの人からそう声をかけられ、別の避難所へ向かい、母親と再会。その後、父親とも合流できた。阿部さんは当時を思い出し、こう語る。「私は幸い両親と再会できましたが、小さいころから面倒を見てもらっていた近所の人はだいぶ亡くなりました。これから町はどうなるの。明日からどうやって生活するのって途方に暮れました」

 

避難所になった発電所


 東日本大震災の津波が到達した直後から、女川原子力発電所には近隣住民が集まってきていた。「全て流されたので助けてほしい」。発電所の南側に位置する石巻市鮫浦地区の行政区長らが女川原子力PRセンターに助けを求めてきた。
 発電所は女川町の中心部から海岸沿いの道を約一五キロ進んだところにある。地震の影響で道路は陥没し、何メートルにもわたって亀裂が走った。発電所周辺の住宅は完全に孤立した。
 原子力発電所は本来、一般住民が容易に立ち入ることはできない。しかし、発電所の職員は「これはただ事ではない」と思い、発電所構内への受け入れを決断した。
 東北電力原子力本部副本部長で女川駐在地域統括を務める土田茂氏(五八)は「最初の二、三日間は、避難されてきた人に一日二食、発電所や協力企業の職員は一日一食の非常食を配布して過ごしました」と振り返る。
 震災当日の夜は、避難してきた近隣住民のほか、発電所や協力企業の職員約一七〇〇人が発電所で一夜を明かした。保管していた非常食は約四五〇〇食。女川町は地震発生から二日間、外部からの支援が入らずに完全に孤立しており、発電所構内に避難しなかった近隣住民のためにも、職員らは地域の避難所に支援物資を届けて回ったという。
 だが、発電所では食料や水、毛布などが不足していた。物資の調達を仙台の本店に要請すると、翌一二日朝には、東北電力企業グループの「東北エアサービス」が運航するヘリコプターが物資を積んで発電所に到着。出産を控えた妊婦も身を寄せていたため、東北電力は仙台の病院までこのヘリで搬送した。  住民には毛布や防寒着なども用意されたが、発電所の職員の中には執務室内の床に作業着姿のままごろ寝する人も。段ボールがあればいいほうだった。まさに、寝食を忘れた対応だった。女川原子力発電所では六月六日までの約三か月間で、最大三六四人の住民が避難所として開放した構内にある体育館に身を寄せた。
未来を見据えたコンパクトシティー
 「海と付き合っていく。あえて高いものはつくらず、『危ない』と思ったら高い所へ逃げる。そういう仕組みにすべきではないかということで、いろんな人たちが出した結論なんです」。女川町商工会事務局長として震災直後から町の復興に携わり、二〇一九年四月から女川町公民連携室室長を務める青山貴博氏(五〇)はそう言って、高台に建つ町役場の三階から外を見渡した。視線の先には、再建された新しい街並みと女川湾の青い海が広がっている。

 


 

(一部 抜粋)





2023年9月号 目次


 
特集1 ルポ 「海の見える町」 宮城県女川町

世界を見渡せば(第32回)
アジア女子大学との交流/関美和(翻訳家・杏林大学外国語学部准教授)

特集2 きっかけは阪神・淡路大震災/㈱ムラカミ

中東万華鏡(第90回)
度量衡と宗教政策/保坂修司(一般財団法人日本エネルギー経済研究所 理事・中東研究センター長)

おもろいでっせ!モノづくり(第129回)
リーダーが夢や希望を持たせないでどうします?/青木豊彦(株式会社アオキ取締役会長)

ドイツでは、今(第63回)
原発がなくなって起きていること/川口マーン惠美(作家)

ベクレルの抽斗(第12回)
酒気帯びで水に入ることの重大な危険性/岸田一隆(青山学院大学経済学部教授)

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